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道しるべ



古い古い、手作りの栞(しおり)が発掘された。

草の葉っぱを動物の形などに並べたえらく控えめな作品4点に、手書きの名前と日付け。
偶然にもその日付は9月12日と書かれてある。

恐らく小学6年か中学1年くらいの頃、野外活動の授業で作ったものだと思う。

いったい何年前の9月12日になるのだ。


しおりという言葉の由来は、山道などを歩くときに迷わないように
木の枝を折って道しるべとする行為を現す動詞「枝折る(しおる)」なのだそうだ。



このしおりを作った人物がいくつかの場所を旅し、回り道を選んだり
立ち止まったり散々道に迷ったり、長いのか短いのかよく分からないような
どちらの呼び方も当てはまる道のりを歩んでいる間
この手作りのしおりは、道しるべの役割は辞退し
引き出しの奥に隠れてひっそりと過ごしていた。


しかも長い年月を飛び越え、書かれた日付と同じ日に発見されるところも
ちゃっかりしている。






しかし、このしおりを作った少女は考えもしなかっただろうな。

あれから彼女は、この小さな島を飛び出してみて
いくつかの文化の中で暮らしてみたり
いくつかの病気を体験してみたり
好きなことも沢山見つけて
人生の道しるべとなってくれる人たちにも恵まれることを。








室内犬と暮らし、犬にそのしおりを見せたが
あまり興味を得られなかったというのも想像しなかっただろうな。









『あなたがいなくても、わたしはちゃんと生きてこれたし
よく道にも迷ったけど、それはそれで面白かったよ。
あなたよりも綺麗でセンスの良い栞にも出会えたし
形にはできないようなこころの栞もたくさん作ることができたよ。』

しおりに伝えると、生意気なしおりが返事をした。


『わたしはずっとこの場所であなたの道を見守ってきました。
これからもどうぞ思う存分に瞑想も迷走も楽しんでくださいな。』




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気持ちの良い青空の季節になった。
朝晩は寒くなり、そして家の中の寒さ対策、そろそろどうにかせねば‥

近づく紅葉が楽しみです。






先日の夜、実家の両親と
祖母のささやかなメモリアルを行った。

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絶対に許してはならないこと

「絶対に許してはならないことは不安の念を心に居座わらせることです。取越苦労は魂を朽ちさせ、弱らせ、蝕みます。判断力を鈍らせます。理性を曇らせます。事態を明確に見きわめることを妨げます。いかなる人間も自分で解決できないほどの問題はけっして与えられません。克服できないほどの大きな障害は生じません――内在する神性が発揮されるような心掛けをしておればの話ですが……。地上の人間は、少数の例外を除いて、まだまだ本当の意味で生きているとは言えません。内在する霊的属性のごくごく一部しか発揮しておりません。よくよくの危機、よくよくの非常事態において、その霊力が呼び覚まされて勇気と知恵とを与えてくれますが、本来はいつでも引き出せるものです。病気を治し、迷いの時に指針を与え、悩みの時には指導を与え、疲れた時には力を与え、視野がさえぎられている時には洞察力を与えてくれます。それを可能にするのはあなた方の心掛け一つにかかっております」

シルバー・バーチの霊訓(三)二章 悲しい時、苦しい時こそ  p. 34 ~ 35

人がこの世を旅立つということ

「ほな行ってくるわ。後のことは頼んだで。」

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その言葉を聞き、はっとした。


たぶん父親は、同じような言葉を自分に言い残して 霊界へと旅立つのだろう。
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本来はこんな感じなのだろうなと思った。
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先日の朝、私は(近頃の自分にしては)がんばってとても早起きをし実家へ帰り 父を港まで送って行った。 その足でチョコを散歩に連れて行き 桜道を歩きながら色々と思いを馳せたのだった。