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ざくろ



手が届くよりも50、60cmくらい高いところに
綺麗なザクロの実を見つけました。

背が高い人がちょっと手を伸ばして取ってくれないかなぁと思ったのだが
この国のこの島で、身長が2メートルオーバーの人を捕まえて
高いところにあるザクロの実を取ってもらえるチャンスは
たぶんあまり有力ではないかもしれないので
自分で脚立を出してきて、がんばって収穫した。

脚立を2段くらい上がると、一枚目の写真の実に手が届いた。
しかしひっぱってちぎれるのかと思っていたら、
そうはいかなかったので仕方なく剪定はさみを探してきて
もう一度脚立に登り、私は目出たくザクロの実を手に入れた。

すると、もっと上の方に良さそうな実がもうひとつあるのを発見してしまった。
何か人生みたいだぞ、、ザクロの収穫。

面白くなってきたので、私はこの取りにくそうな実を狙ってみることにした。

今度のは、この脚立では届くかどうか微妙な高さにあって
段があったり地面には変な植物が茂っていたり、
ちょっと面倒な場所に脚立を立てる必要があったのだが
せっかくなので色々な試行錯誤をしばらくがんばってみた。

ここまでしてこの実を手に入れる価値はあるのか?
この一個の実のために、ここまで面倒で危なっかしいことをして
私は本当にバカなのではないか?
脚立の上でひとり、冷ややかにつっこむ自分と
取ると決めたからには絶対自分で取ったるんやと言う自分と
2人の変な自分自身のやりとりを聞き流しながら
何とか、そのザクロの実を収穫することができた。

念願の実を手に入れた私は、這い出て来た何匹かの蟻を払い落とし
写真を取り、文章を書いている。

大喜びでその美しい色の実を食べるわけでもなく
実物はキッチンテーブルに放置して
二階の部屋で写真を見ながら、文章を書いているのだ。
我ながら、可笑しなバカだよなぁと笑いながら。。



あ、二粒くらい食べてみたよ。
とても甘くて美味しい。
うん、取ってよかった!



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気持ちの良い青空の季節になった。
朝晩は寒くなり、そして家の中の寒さ対策、そろそろどうにかせねば‥

近づく紅葉が楽しみです。






先日の夜、実家の両親と
祖母のささやかなメモリアルを行った。

祖母が旅立って3年が経った。
実感的には、5年とか7年くらい経ったような気がする。
祖母にたずねてみた。
この世を旅立った人にとって、3年とはどんな感覚ですか?

あちらでは時間の感覚がだいぶ異なるのだと思う。
祖母は、私たちよりも10年とか20年くらいは先を行っているような気がした。
もっともっと先かもしれない。
こちらで「生きていた」ときの祖母とは、かなりの別人というか別人種というか、
言葉では上手く説明できないが意識の部類、種類が別物なのだ。
でも、愛で繋がっているから祖母だとすぐに分かる。

「死んだ」人は、死んだときのまま時が止まってしまうのではない。
全くない。
旅立った人は、どんどん進んでいく。

今回、このことを改めて強く感じた。

私は声に出して話したわけではないのに
隣にいた父親が全く同じようなことを言ったので驚いた。








絶対に許してはならないこと

「絶対に許してはならないことは不安の念を心に居座わらせることです。取越苦労は魂を朽ちさせ、弱らせ、蝕みます。判断力を鈍らせます。理性を曇らせます。事態を明確に見きわめることを妨げます。いかなる人間も自分で解決できないほどの問題はけっして与えられません。克服できないほどの大きな障害は生じません――内在する神性が発揮されるような心掛けをしておればの話ですが……。地上の人間は、少数の例外を除いて、まだまだ本当の意味で生きているとは言えません。内在する霊的属性のごくごく一部しか発揮しておりません。よくよくの危機、よくよくの非常事態において、その霊力が呼び覚まされて勇気と知恵とを与えてくれますが、本来はいつでも引き出せるものです。病気を治し、迷いの時に指針を与え、悩みの時には指導を与え、疲れた時には力を与え、視野がさえぎられている時には洞察力を与えてくれます。それを可能にするのはあなた方の心掛け一つにかかっております」

シルバー・バーチの霊訓(三)二章 悲しい時、苦しい時こそ  p. 34 ~ 35

人がこの世を旅立つということ

「ほな行ってくるわ。後のことは頼んだで。」

雨の翌日の朝、父はそう言って船に乗り出かけて行った。

その言葉を聞き、はっとした。


たぶん父親は、同じような言葉を自分に言い残して 霊界へと旅立つのだろう。
そして、人がこの世を旅立つということは
本来はこんな感じなのだろうなと思った。
仕事や家事など様々な雑務、日常のしがらみから解放され
楽しい旅に出かけるのだ。
愛する人がそのような解放と喜びを体験しようとしているのだ。
見送る我々には悲しむ必要など無いはずである。
喜んで見送り、感謝と愛を込めて送り出す以外に何が要るのか?








先日の朝、私は(近頃の自分にしては)がんばってとても早起きをし実家へ帰り 父を港まで送って行った。 その足でチョコを散歩に連れて行き 桜道を歩きながら色々と思いを馳せたのだった。